「国は、生きる意志のない者を強制的に生きさせる」
尊厳死や承諾殺人、自殺ほう助を承認する人たちがこんな主張をします。
また、
「自殺はプライベートなことで、あらゆる道徳的判断は控えるべきである。」
なんて、倫理学者アルベルト・ボンドルフィは言いました。
確かに。
全くその通りだと思います。
だから、私は生きる意志を無くしてしまった人たちに同情します。
だから、そんな人たちが生きる意志を無くしてしまわないように、うさぎたちは跳ねます。
確実に新しい流れへと変化しています。
コロナ禍に翻弄されて見失いかけていますが、語学教育は確実に変わっています。
日本語教育小委員会の議事次第が出ました。
語学教育は4技能が重視され、当然、それらの技能を評価する必要性が求められています。
これまで『受容』ばかり評価してきた日本語学校も変わる必要性が求められています。
確かに、4技能のうち『産出』にあたる技能を評価するのは難しい、のではなく面倒くさいです。
けど、いい加減、日本語能力試験のようなテストを続けていては、世界の笑いものでしかありません。
こんな ↑ 試験をするには人手が足りない!
こんな ↑ 試験をするには場所が無い!
こんな言い訳をして、要はやりたくないだけの狂師たちが変化を恐れ、必死に足を引っ張ろうとしています。
こういう日本語教師たちを、私たちは「生きる意志を持たない者たち」と呼びます。
生きる意志を持たない人たちは、無責任なことばかり言って何も出来ません。
波を越えることなど出来ません。
けど、この変化は誰にも止められません。
けど、この変化は誰にも止められません。
その認識がない人たちと一緒にいては、こちらまで死んでしまいます。
こういう人たちを生かしておく必要があるのでしょうか?
もちろん、これは『殺人』の話ではありません。語学教師としての生命です。
偉そうに言うな?
はい。別に偉そうに言おうが言うまいが変化は止められませんし、変化出来ない者は生き残ることなど出来ません。
当然、お辞めいただくべきでしょう。
社会が迷惑しますから!!
かつて、学校の英語教育は、中学高校、そして、大学でまで英語を学ぶのに一言も話せない、なんて言われていましたが、いい加減、それじゃいけないことに世の中が気づき始め、ようやく教育改革の旗印に、大学入試において英語4技能が問われる方向へと移行しています。
これまで何度も学校の英語教育が批判されてきました。
圧倒的多数の人間にとっては、無駄な時間以外の何物でもありません。
けど、『進学』を錦の御旗に無駄な時間が繰り返されてきました。
「どうせ役に立たないのに!」
と口にすれば
「入試で役に立つ!」
と言い訳が立ち、一言も英語が話せないような学校教師が、学校で英語の授業を受け持てたのです。
これからは「入試で役に立つ!」ためには4技能が求められます。
4技能試験の導入が決まった際、学校の英語教師たちが猛反対したそうです。
けど、残念ながら、文科省から「高校では英語の授業を英語でやれ」と言われていたのに、無視して来た英語教師は職を失います。
4技能へと変わらなければならないのです。
英語教育では、そのためのシステムや教材が開発され、実施され始めています。
日本語学校は?
当然、変わらなければ生き残れないでしょう。
「生きる意志を持つ」というのは、「変化できる」者のみ持つことができます。
「変化出来ない」者は、「生きる意志を放棄」したのと同じです。
無責任に文句を言うのは自由です。
けど、誰からも相手されなくなるだけですよ。
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