日本語教師の国家資格化が始まり、日本語教育機関認定法も施行されました。
SNSや日本語教育関係のコミュニティでは、「国家資格になったのだから給与を上げるべきだ」「待遇を改善すべきだ」という議論が数多く見られます。
もちろん、それ自体は間違っていません。
日本語教師という専門職が、これまで十分な社会的評価を受けてこなかったことは事実です。
しかし、私はその議論を見ていて、一つ大きな違和感を覚えます。
そもそも今回の制度改革は、本当に給与を上げるための制度なのでしょうか。
私は違うと思います。
国家資格化も、日本語教育機関認定法も、その本質は一貫しています。
日本語教育の「質の向上」です。
なぜ国家資格化が必要だったのか
国家資格とは、本来「高度な専門性を持つ職業」であることを社会が認める制度です。
つまり、日本語教師という仕事を専門職として社会に認めてもらうためには、「専門家としての教育」ができることが前提になります。
しかし、日本語教育の現場を振り返ると、本当に専門職と呼べる教育が十分に行われてきたでしょうか。
教師が教壇に立ち、文法を説明する。
学生は静かにノートを取る。
問題集を解く。
テストをする。
昔から続く、この授業スタイルは、日本の学校教育そのものと言えるでしょう。
しかし、日本語教育の目的は、単に文法を覚えることではありません。
外国人学習者が、日本で生活し、働き、学び、人とつながるための「日本語コミュニケーション能力」を育てることです。
その能力は、一方的な講義だけでは身に付きません。
この講義の必要性を説く日本語教師の言い分は常に決まっています。「『JLPT』に合格できなければ意味がない」「学習者のニーズだから」です。
CEFRが示した教育の転換
文化庁が「日本語教育の参照枠」を策定した背景には、ヨーロッパで広く活用されているCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)の考え方があります。
CEFRでは、
「教師が何を教えたか」
ではなく、
「学習者が何ができるようになったか(Can-do)」
を重視します。
つまり教育の評価対象は教師ではなく、学習者の成長なのです。
例えば、
「助詞を理解している」
ではありません。
「市役所で住所変更の手続きができる」
「職場で上司に相談できる」
「病院で症状を説明できる」
このように、「実際に日本語を使って何ができるか」が学習目標になります。
これは従来の日本語教育とは大きく異なる発想です。
知識中心から、実践中心への転換。
これこそが、現在の日本語教育改革の核心なのです。
日本で生活する外国人に必要なのは、『JLPT』ではなく、こちらの方であることは言うまでもないでしょう。
「教える授業」から「使う授業」へ
ところが、今でも多くの教室では、教師が話し続ける授業が行われています。
学生は聞くだけ。
話さない。
失敗しない。
挑戦しない。
これでは、日本語は上達しません。
スポーツを考えてみてください。
野球のルールを100時間勉強しても、野球は上手になりません。
実際にボールを投げ、打ち、走るからこそ上達します。
語学も全く同じです。
日本語は「知る」ものではなく、「使う」ものです。
だから授業でも、
話す。
聞く。
考える。
伝える。
協働する。
その時間を増やさなければ、日本語コミュニケーション能力は育ちません。
学生が伸びない原因は誰にあるのか
残念ながら、学生の日本語力が伸びない理由を、
「最近の学生は勉強しない」
「やる気がない」
「能力が低い」
と片付けてしまう教師もいます。
もちろん、学習者自身の努力は必要です。
しかし、それだけで説明できる問題ではありません。
もし、多くの学生が同じところでつまずいているなら、それは教育方法を見直すサインかもしれません。
教師自身が授業を改善し続ける。
学生の反応を分析する。
授業設計を見直す。
Can-doに合わせて活動を作り直す。
それこそが専門職としての日本語教師の姿ではないでしょうか。
「質の向上」とは教師の技術改革である
「質の向上」という言葉を聞くと、多くの人は設備や教科書のことを思い浮かべます。
しかし、日本語教育機関認定法が目指している質の向上とは、それだけではありません。
教師の授業力。
教育課程。
評価方法。
学生支援。
教育改善。
学校全体でPDCAを回し続ける仕組み。
こうした教育システム全体を改善することが、「質の向上」の本当の意味です。
だから認定制度では、
教育課程の整備
Can-doによる評価
授業改善
自己点検・自己評価
継続的改善
などが求められています。
これは学校を管理するためではありません。
学生がより良い教育を受けられるようにするためです。
給与は「結果」であって「目的」ではない
ここで最も重要なことがあります。
それは、
待遇改善は、教育の質の向上によって社会から評価された結果として実現するもの
だということです。
もし教育の内容が変わらず、
昔と同じ授業を続け、
学生の成果も変わらないまま、
「国家資格だから給料を上げてほしい」
と言っても、多くの人は納得しないでしょう。
専門職とは、
社会に価値を提供するからこそ評価される仕事です。
だから順番は逆なのです。
まず教育の質を高める。
学生の人生を変える。
社会から評価される。
その結果として待遇も改善される。
この流れこそが、本来あるべき姿ではないでしょうか。
本当に求められる日本語教師とは
これからの日本語教師に必要なのは、「知識を教える先生」ではありません。
学生一人ひとりが日本語を使い、自分の力で考え、社会の中で生きていけるよう支援するファシリテーターです。
授業を設計し、
学習活動を工夫し、
学生の成長を支え、
振り返りを繰り返し、
教育を改善し続ける。
そんな教師こそが、これからの日本語教育を支える存在になるでしょう。
国家資格化は、日本語教師のゴールではありません。
日本語教育を本当に変えるためのスタートラインなのです。
私たち日本語教師が向き合うべき相手は、「給与」ではありません。
教室で学ぶ一人ひとりの学生です。
学生が変われば、学校が変わります。
学校が変われば、日本語教育が変わります。
そして、日本語教育が変われば、日本社会そのものも変わっていくでしょう。
だからこそ、今、私たちに最も求められているのは、「待遇改善」を叫ぶことではなく、「教育の質を高め続ける覚悟」を持つことなのです。
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