キリスト教の聖書には旧約聖書と新約聖書があります。

 ガキの頃、国際社会を勉強するには宗教の勉強が切り離せないと聞き、まずはキリスト教を勉強しようと、とりあえず新約聖書を読んでみました。いいことが書いてあったのですが、いまいち分からず、自分が何も知らないことを思い知らされました。
 お恥ずかしながらあとから知ったのですが、旧約聖書も含めてキリスト教の聖書だったのです。
学校で「旧約聖書はユダヤ教の聖書、新約聖書はキリスト教の聖書」と教わったと記憶しています。それを私が勘違いしたのかもしれません。ご存じのとおり、キリスト教の聖書を読むには、旧約聖書も新約聖書も両方が必要だったのです。


 日本語教育の研修をする際、私はこの話を例に上げます。そして、新約聖書だけでなく、旧約聖書も読むように説明します。この喩えで指すのは、新約聖書とは日本語文法、旧約聖書とは国語文法です。新約聖書を読むなら、まずは旧約聖書を読みましょう。日本語文法を学ぶなら、小中学校で学習した国語文法をまず思い出しましょう。こんな感じです。


 幸いなのか必然なのかわかりませんが、私が日本語教育に進む前、学習塾では国語の先生として国語文法をみっちり教えていました。それが、ちょっとしたご縁から日本語教育の道へ進むことになり、日本語文法を学ぶ際「国語文法ではこう教えることを日本語文法ではこう教えるのか!」と感動したものです。
 そう。
 日本語文法を学ぶのに国語文法が大いに役立ったのでした、というより、国語文法も知らずに日本語文法が学べるのかと疑問に思うほどです、って、12〜13歳の中学生が学習する国語文法ごとき、日本語教師が知らずに何をするのか、なんて思ってしまいますが(笑)。


 さて、先日、JLPT対策をしていたとき、偉くなっちゃうと授業に入れないのですが、助っ人、代講として入ったとき、そのクラスのほぼ全員が同じ問題で間違えました。それを担任に報告する際、「あのクラスは第二謙譲語が理解できてないから、みな同じ問題で間違っていた」と報告すると「へ?」という感じでした。その「へ?」は、信じられないという「へ?」ではなく「第二謙譲語って何?」という「へ?」でした。

 また、さらにその前には「陳述の副詞を集めたプリントかなにかあるか?」と聞くと、やはり同様の「へ?」でした。この手の知識(文法用語)を日本語教師が知らない、その無知ぶりを責めると「日本語教育にそんな知識は必要ない!」とか言い出す始末です。


 「第二謙譲語」なんて名前こそ違いますが、中学生、否、中学受験を目指す小学生でも知っています。「陳述の副詞」なんてのは、中学生の定期テストどころか中学入試の問題にすら出題されます。それを日本語の専門家を自称する日本語教師が知らないというのはいかがなものか。

 もちろん学習者に「第二謙譲語」だの「陳述の副詞」だのといった文法用語を覚えさせる必要などありません。けど、日本語を教える身なら知っていて当たり前。専門家同士の会話でなら通じて当たり前なのです、って、少なくとも私が新人だった30年前は。そもそも養成講座のテキストだろうが様々な日本語教師の専門書でも「国語文法では〇〇と習いますが、日本語文法では・・・」という記述をいくつも見つけました。

 まさに「日本語教育の質の低下」というものでしょう。

 そう。

 「日本語は、日本人なら誰にでも教えられるものではない。日本語教師は専門職だ」と言いながら、その日本語教師が日本人なら誰でも教えられるレベルの指導を行っている、そう感じているベテラン日本語教師は少なくないでしょう。


 国家資格にするなら、誰でも例外なく試験を受けさせる!


 当たり前というものです。

 養成講座をでさえすれば誰でもなれる状況が、この手の質の低下を引き起こしてきたとしか思えません。

 





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master mimi